●本を読むことと学力
国語を教えていてたまにものすごい無力感に襲われる。
当たり前のことを教えているような、かつどうしようもないような感覚になるのだ。得にものすごく当たり前のことを教えているとき、つまり「ここにこう書いてあるからこうなんだよ」としか言えないような問題の時、それを余計に感じる。
確かに点数を取りやすい受験国語のテクニックというモノはある。「つまり」の後には重要なことがくるとか、逆接の接続詞の後には重要なことがくるとかその手の類のことだ。
しかし(逆接w)、それら文系の科目には通じることだが全て帰納的に導き出された法則がほとんどなわけだ。日本語という言語が出来て数千年の間に蓄積されたことが法則として導き出されて、それを教えることで彼らは演繹的な問題解決を出来るようになる。
国文法でいえば、「ない・う・ます・た・。・とき・ば」というコトを教えるからどれが「未然形」か彼らは理解出来るようになる。
これって勉強なのか?笑
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さらにひどい子になると、算数の問題文が理解出来ないという事態になる。問題文が何を言っているか分からないというのだ。算数の公式がどうのこうのの前に、言語のセンスの欠如だと本当に将来が不安になる。
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▼国語は暗記か?
文法のようなテクニカルな単元は覚えることが全てだ。センスのあるなしにかかわらず覚えてなかったら問題にもならない。
が、しかしその他の単元はどうだろう。説明文・随筆・小説・論説…これらを読んでいくためにはいったい何が必要か。受験のための国語を教えるのではないとしたら、これに対する解答を見つけることは本当に容易ではない。
▼言語のセンスを身につけること
俺なりにこれに答えるとしたら、そこに必要なことはセンスだ。国語なり英語なりそこに共通する言語を理解すると言うことにはある程度のセンスが重要になる。勉強が出来るとか国語のテストで点数が取れるとか、そういうセンスではない。もっと日常生活に深く根付いた、理解するためのセンスが必要になる。
そんな言語のセンスは、俗に言う脳みその回転、というのに凄い近いと思う。会話の受け答えをしたときにトンチンカンな事を言うやつにそういうセンスはない。ぎゃくに鋭い切り返しが出来る子どもは年齢にかかわらず存在する。そう言うヤツはセンスがある。
▼どうやって身につけるモノか
そう言うセンスは"日常生活"に深く根付いているということに先ほど触れたが、そのセンスはある意味実に簡単に、そして簡単だからこそ続けることが難しい"読書"という幼児期の習慣にRoot backする。
幼児期の読書は、本当に子どもの頃は親によって行われる。寝る前に「絵本を読んで」という子どもに親が読み聞かせするのがその原点だと思う。その読み聞かせをいったいどこまで習慣にしてしまうか、つまり「親が読み聞かせをしなくなった後、子どもが自主的に読書を行うようになるか」ということがその分け目となるように思う。
その読書習慣をしっかりと身につけたモノは、言語のセンスが出来る。これは何に有効というものではなくて、全部に有効なのだ。算数とて数学とて、よほど高等数学にならない限りは数字だけで存在するわけではない。その前には必ず問題文の理解という点で言語を解さねばならないわけだし、避けることは出来ない。
読書習慣において言語のセンスを身につけなかった子どもは成績が伸びない。話していて訳が分からないことばっかり言っている子どもの成績が伸びない、それと同じコトだ。
▼Who is to be blamed? 誰が悪い?
読書習慣を身につけなかったのは子どもの責任ではない。親がその環境を与えなかった、その原因につきる。テレビに子守をさせる、ビデオに子守をさせることも共働きの忙しい環境の中では仕方のないことかも知れないけれど、それでは子どもの成績は伸びないし、それを嘆く親は自分の中に責任があることが分かっていない。
▼提案 - 子どもはもっと読書させるように親が仕向けろ!
はじめはマンガでも良いだろう。幼少期には絵本からはいるのだから、そのステップを通っていくとしたらマンガから始めて少しずつ難しい文章にしていくのでも構わないと思うけれど、もっと圧倒的な読書を小学生の内に、教えるべきだ。
幼少時には英語を習わせるとかピアノを習わせるとか、本当にそれ以前にこれをやってほしい。言語のセンスを身につけた子どもは、受け答えもしっかり出来るようになり、これだけで成績が伸びると本当にそう感じる。英語においても文法が大事とみんな言うが、最後に英語を使う機会は人と人とのコミュニケーションである。その中で、うまく意思疎通をしていくためには何よりそのコミュニケーション能力が必要になる。日本語で話が面白いやつ、面白くないヤツが居るのと一緒でどれだけ英語を流ちょうに扱えるようになろうと中身がからでは全く無意味と言っていい。
読書はその子の知識の泉となる。色んなコトをその本の中から学んでくる。子どもというのは本来は知識を求めるようにできているのだ。勉強が好きとか嫌いとかではなく、知らないことに何らかの興味を示すというのは、原始時代に身につけた生物の習性である。それを伝える形の一つが本という、一見受動的に見える、実はきわめて能動的な選択を持って行われる作業なのだ。
▼コメント:国際化する世界、逆国際化する脳
日本語を学ぶ、言語を学ぶというのは単純にその話し方や文法などを習うためにあるのではない。背景にあるのは、日本という国・日本語を話す民族というものの学習なのだ。言語を学ぶと言うことは、いわばその文化を学ぶことと一緒だと考えて良い。
。
そして自国の文化の知識は、世界がグローバル化するにつれて余計に重要になっていく。場生んだリーが減って、もしくは消滅して、それで自分に残るアイデンティティは何はなくとも自分が生まれたときや育った土地のことで、旅行に行った土地の名前を覚えておくことではない。
USJやDisneylandに行くことは大人になってからも出来る。そこに夢があるというのは彼らの宣伝文句だが、そこで得られる夢には限度があり、かつ偏向している。Disneyの中には白人至上主義がある、物質至上主義もかれらの商業法をみていれば容易に想像が付く。そこに"夢"があるといっているのは、スローガンに踊らされているだけ、ということに気づかないのは子どもにとって不幸なことだし、大人である親がそこに安易な"夢"を求めて、子どもに満足感を与えるための怠惰な行為だ。
コメント
某塾でせっせと読書活動をしているのは良いことですね☆
個別も導入しないかなぁ。1対1で小学生低学年と本読み。。。楽。。。
Posted by: hassy | 2004年09月03日 13:12