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2004年08月30日

●終わりゆく夏休みに

何かが終わっていくことに一抹の寂しさを感じるのは大人であっても、小学生であっても同じ事だ。ただ、大人の場合は日々の忙しさにその寂しさを誤魔化すことが出来、お酒や仕事にその寂しさをかき消していく。

(続き読みたい方は、>>See all textをおしてね)

それすらも出来ない小学生の頃の夏休みは、もっともっと寂しかった気がする。校庭で遊んでいれば明らかに日が短くなり、じゃーじゃーとうるさかった油蝉は、いつの間にかもの悲しげなつくつく法師に変わる。8月の31日に向かって刻々とカウントダウンされていく日々は8月後半から頭を悩ませる。

始まりがあれば終わりがある、そのことを分からないほど小学生は子どもではない。だけど、終わりがないことがあって欲しいという希望を彼らはきっとどこかにもっていて、それが夏休みという形で現れるんだろう。

夏休みは子どもを少し大人にさせる。
終わることの意味を知った子どもは、さて強くなるのか、それとも鈍くなるのか。日に灼け、夏色した彼らと向かい合うことが出来るのは楽しみだ。

永遠の宿題 なぜ夏休みは終わってしまうのか。

何かが終わっていくのは、さびしいしかなしい。その哀切を感じる心は、人生歳を経るほどに増してくると考えられるが、じつはぼくはそうでもないのではないか、と思う。
 子供の頃の方が、もっとさびしかったし、もっとかなしかった。

 
 たとえば、日曜日の真昼、ぼくは縁側に寝そべっている。友だちは、いま頃どこで、何をして遊んでいるのだろう? 出かけて行って仲間に加われば、いつも通りの日曜日にすぐさまなるのに、きょうはなぜだか、ぼくはひとりで、此処にいる。


 何度か繰り返し読んだ本の頁を、いまからもう一度めくっていけば、間違いなく日は暮れる。ぼくは何かに取り残されていく。吸い込まれるような青い空を見つめながら、子どもの頃のぼくは、えもいわれぬものくるおしさに、身もだえしていた。


 数年前、ぼくは「あの、夏の日~とんでろ じいちゃん」という映画を作った。東京に住むボケタというあだ名の、いつも何かをぼんやり考えていて、クラスのみんなとテンポの違うひとりの小学生が、田舎へ行ってじいちゃんと夏休みを過ごす。


 ところがこのじいちゃんがもうすっかりボケていて、いまはあるはずのない小川へ行って、目高や鮒や泥鰌を掬って遊ぼうとボケタを連れ出す。鬼蜻?や玉虫を追ったり、鯉と唄を唄ったり、蛸と決闘したりもする。あげくはじいちゃんとボケタは、二人で手をつないで空を飛び、入道雲の彼方にいるじいちゃんの初恋の少女に会いに行く。


 この映画を、その年の夏休み、ぼくの古里の小学生の子どもたちが、先生に連れられて、課外授業としてみんなで見て、その感想文をそれぞれに書いて、送ってくれた。
 子どもにも面白い場面はいくらでもあるから、楽しく見てくれただろうと期待して読んでみると、彼らがいちばん興味を持ち、感想文に書いて寄越したのは、じいちゃんの死の場面についてだった。


 「じいちゃん、もう死ぬの?」

「ああ、そのようじゃのう」

「死んだら、どうなるの?」

「さあのう。わしもまだ、死んだことがないけえのう」

 この死の場面について、子どもたちは一心に考え、さまざまに問いかけてきた。ぼくはそのことに、深く心を打たれた。


 子供たちの心は、終わっていくものに対して、かくも純真に問いかけている。人生はこの先まだまだ長く、死から遠ければ遠いほど、むしろより深く、死の不思議について問いかけようとしている。
 


 この映画のラストでは、少年はじいちゃんの死を看取り、田舎の駅を発つ。「また来年もきてくれるかのう」と見送りながら、ばあちゃんは言うが、ボケタもばあちゃんもそのような夏がもう決してこないだろうことを、よく知っている。


 こうして夏休みは終わり、少年は東京へ帰るが、そこはまるで、未知の世界のよう。すべてのものは終わってしまっていて、ボケタはその中で、また新しい自分を発見しながら生き始めるのだ。


 ボケタとの会話の最後に、じいちゃんはこう言い残す。

「……じゃが、生きておったときのことなら、よう分るぞ。……ええ人生じゃった」。

この遺言のような一言を、感想文を送ってくれた子どもたちは決して見逃していなかった。


 「だからぼくらも、この夏休みを、いっしょけんめい、勉強したり、遊んだりして、よい夏休みにしなくてはいけないのですね」




 ううむ! とぼくはもう唸ってしまった。

 子どもたちが出した答えは、単にじいちゃんの言葉を読み解いただけではないだから自分はどうするか、その次に向かうべき意志と姿勢までが示されている。


 同じ日曜日が二度とこないように、同じ夏休みはもう二度とやってこない。そのことをいちばんよく知っているのは、子どもたちだ。

 子どもはどんどん成長していく。夏休みが終わって学校へ行くと、先生も、教室の机も、運動場もまるで見知らぬもののように小さくなっている。そこは未知の世界だ。


 未知の世界に向かって一歩を踏み出すのは恐ろしい。だから彼らは、いつも世界に向かって緊張している。これが大人になれば、ひと夏の前も後もそんなに変わりはない。さびしさやかなしさを忘れ、生きる意味さえも失っていく。


 夏休みの終わりを考えることは、だからこの人生において、無くしてはならないものだと思う。その哀切は、じつは来るべきあしたを創造する力なのだ。


 さびしさやかなしさの向こうからこそ、新しい何かが、生まれてくるのである。それは伝えるべきものの大切さを学ぶからでもあるだろう。

(大林宣彦著、朝日新聞2001年8月28日夕刊掲載、永遠の宿題-21世紀最初の夏休みに)


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