●親の無責任と子どもの無責任
子どもが親の期待を演じているとか、それで引き起こされた「良い子」の反乱が現在の青少年犯罪率の増加に繋がっているとか言われて久しい。そのロジックは、
1.親が子どもに「自分の理想像」を押しつける
2.子どもは盲目的に親のコトバに従う
3.結果ストレスが溜まる
4.子どもが「親の期待」を演じることに疲れ、犯罪に走る
というのが大概の流れである。
…意味不明じゃないか、この言い分????異議あり。
((続き読みたい方は、>>See all textをおしてね)
まず教育とは何か、最初に考えておきたい。教育とは究極的に「価値観の押しつけ」に他ならないとおいらは思っている。教師にせよ親にせよ、自分が正しいと考えることを生徒や子どもにも正しいと考えさせることが教育である。歴史的に見てもそれに他ならない。いつの時代も、教育は国の根幹政策として国民・臣民をコントロールするために使われ、そしてその結果、国民の考え方は大きく変わる。戦時中は戦時中の教育がされ、戦争は美化されて伝えられたわけだし。
そう考えれば、親が子どもに理想像を押しつけることは間違いではない。それを否定してしまえば、教育なんてしない方が良いことになってしまう。なすがまま・あるがまま育てればいいというのであれば、親・教師なんて必要ないじゃない?この段階で、良い子の反乱のロジックは最初から崩れる。
子どもが盲目的に従うことも何も不思議はない。親は子どもにとって最大の権威であり脅威だ。それに従わないことは、動物としても知識のある人間としても孤立し、自分で食料を得られない子どもの内に孤立することは死を意味する。
そして3段階目のストレスが溜まるというものだが、これも子どもの権利だの意見だのの過保護から来ていると思う。そもそもなぜストレスが溜まるかというと、「外界と自分のしていること、それから自分のしたいことに何らかの差がある」せいである。したいと思うことが出来ない、そのことからストレスは生まれる。
じゃあ聞くけど、子どもがしたいことは親がして欲しいことと一致するか。おいらの答えは「多くの場合NO」である。どこの誰が周りの友達が遊んでいるときに自分だけピアノの練習をしにいくのが楽しいか。塾に行って勉強するより、家でゲームしている方がよほど楽しいに決まっている。大人が「やらなければいけないからやる」ことは、基本的に「それをしないと生きていけない」からだ。でも子どもはそんなことをしなくても親の庇護下で十分に生きていける。じゃあ、子どもが自主的にそれをする理由などどこにもないことになる。
「ピアノは楽しかった、習い事もおもしろかった、お前が行ってることは偏っている」こんな批判の向きもあるだろう。確かに楽しいときもあるだろうけれど、じゃあ子どもに任せておけば彼らは全てを自主的に構成してこなしていくことができるか。またこなしていこうとするだろうか?そんなことが出来るなら、これまた教育なんて必要ない。ここで新しい教育の定義が見つかる。教育とは「子どもが自立的に生きていくようにする」という目的も持つ。
最終段階の4つ目、「ストレスが溜まったから、非行にはしる」 もうこの部分なんてめちゃくちゃではないか。ストレスが溜まったら子どもは非行にはしるのか?それならこの世の中は既にめちゃくちゃだ。非行にはしるのは「ストレスが溜まる」ことが唯一の原因ではない。そしてこの裏に隠れている理由が大人が皆隠したい最大の非行の原因なのだとおいらは思う。
大人が馬鹿すぎるんである。簡単なことだ、親が子どもを教育するほど、自分が成熟していない。それは3つの点から明らかである。
1.家庭内の親の権力が今までになく少ない
2.親自身の教育レベルが低い
3.子どもを大事にすること=甘やかす、自由を与えることと勘違いしている
1の親の権力の低下は歴史的に見ても、今は最低レベルなのではないかと思う。「親
嫌い」「お父さんとは最近話してない」なんてざらに聞くことの出来るせりふだ。そしてこんなせりふはもう飽き飽きだ。嫌ってくれても話してくれなくてもいいけれど、親は子どもを経済的にも社会的にも養っているし、それに対する全責任を負っている。それは大変なことだ。24時間子どものそばにいるわけでもないのに、子どもを信用してお金を持たせて好きなことをさせているのは、子どもが反社会的な行動に出ない、という信頼の元に成立しているのだ。それなのに、子どもは「親が嫌い」というのは、もしくはそれを言わせておくのは親の権力の低下である。そんなこと言おうもんなら、たたきつけられたというのはもう昔の話なんだろう…。
2の親自身の教育レベルが低い、というのは親の子どもに対する態度、それにまつわる犯罪から明らかではないだろうか。パチンコ屋に行くのに子どもを車の中においといただとか、言うことを聞かなかったから殴ったとか殺したとか、親としての資格がないんじゃないかと疑いたくなるような事件が多い。
一昔前なら「これは常識だ」で終わっていたことが今や常識ではないのだ。こんな親の子どもは不幸だし、それ以上にかわいそうだ。選んで生まれてきたわけではない、という点で子どもは親よりも多く権利を持つし、「子供を持つかどうか選べる」という点でもまた親は義務を多く担っている。このレベルの低下は人口社会学的なものだという考え方もあるし、社会的な環境の変化、文化的な社会通念の変化だという向きもあるが、なんにせよ落ちていることは確かだ。
3の子どもを大事にすること=甘やかすことと勘違いしている社会的な考え方はかなり蔓延している。「子どもは元来善である」とかそういう性善説・性悪説のレベルではなく、親は子どもに教育をする義務があるし子どもにはそれに従う(しかないんだけど)義務がある。問題は教育をする・しないなんていう低次なものではなく、「何を教育するか」という高次なレベルであるべきなのだ。
詰め込みだの、勉強のしすぎだのえらそうに批判されていた数十年の高度成長期以来の受験戦争であるが、犯罪率から見れば子どもの犯罪はもっと低かった。その因果関係だけ見れば、近年の教育改革は「失敗した」と断言できる。敢えて短絡的な言い方をすれば、ゆとり教育は犯罪を増やしただけだ。
その是非を問うまでもなく、ゆとり教育という寝ぼけた政策を採用している国は年々減少している。にも関わらず、日本が近年取り入れたのは愚策というしかない。ゆとり教育を先んじて取り入れたイギリスは、その教育レベルの低下から反・ゆとり教育に傾いているし、アメリカもイギリスと同じ道をたどっている。
簡単に言えば、ゆとり教育=勉強を減らし、子どもの自主性に…なんてうそぶいているのは世界でも日本だけで、しかもその政策の結果は失敗とわかっている愚策なのだ。
昨年のEconomist誌によればアジアは今、日本の数十年前と同じ受験戦争へと突入している。自らの国が発展するためには、将来世代の充実を目指そうとありとあらゆる教育を施している。ある子どもの生活を取り上げていたが(もちろんJournalismにありがちな極端な例を取り上げていることを最初に記しておくが)、Aくんは朝から勉強して学校に行き、帰ってきたら数学と英語の塾に行き終われば12時。そこから明日の予習を1時間して、最後に少しだけゲームして睡眠という一日を過ごしているらしい。
こんな世の中で、いったい日本の社会的風潮「ゆとり教育で子どもに自主性を持たせよう」というのがどこに向かっているか、おいらがいぶかっているのも理解して頂けるのではないだろうか。
ゆとり教育に全て反対というのではないし、そこに良いものが含まれていることは否定しない。例えば、子どもが色々なオプションをもてるように総合学習・社会学習を提供することはとても良いことだし、阪神地区で実施されている「トライやるウィーク」はその方法にまだ改善の余地はあり、荒削りではあるが、個人的意見では大賛成だ。今まで、地域社会が提供してきた「社会的な交流」が減り続けている現代に、学校がその機能を代替することは良いことだと思う。
(*)「トライやるウィーク」(説明:子どもが社会学習の一環として、企業・商店・公機関などに2週間程度実習を無料でするというもの)
繰り返すが、現代における問題は「教育をするか・しないか」ではなく、「どのように教育をすればいいか」である。よって、子どもが親の価値観の押しつけによって犯罪に走るというのは無能な大人のロジックのすり替えである。根本的問題は子どもがストレスをもつことにあるのではなく、それをうまくコントロールできない親・社会の原因なのだ。それを主張しないのは、大人が自らの無能を晒さないための自己保身であり、問題をさらに根深くしているだけだ。
大人とて、全知全能の存在ではない。間違いがないとは言い切れない。ただそれが現在のレベルではそのような弁護さえ出来ないほど病んでいる。そこが問題なのだ。
追記:それぞれへのメッセージ
大人よ、そしてもう大人と呼ばれる自分に対して。子どもが子どもを育てる様なことになってはいけない。子どもは親を選べないんだから、将来子どもに「あの時はつらかったし、何もわからなかったけれど、今は感謝している」といわれるような教育をしよう。嫌われることは何も問題じゃない。それが子どものためになることならば、そしてその子どものためというのが自分の独りよがりでないなら、勇気を持ってそれを突き通していく信念と強さを持つべきだ。そのために膨大な時間と労力をあなたの親はあなたに費やしてきたんだから。
子どもよ、「いい子」でいたいから、親に背きたくないからと自分を騙して無駄な非行に走るのはよそう。自分の未来は親の未来ではないし、親は神様ではないから間違えることも当然ある。その時に、自分で判断できる力を持とう。「親がこういったから」なんてかっこわるすぎる。子どもである前にあなたは人間だ。それを意識して、しっかり自分で考えていこう。自分の意見を持たないことは、首がないことと一緒だ。わからなくてもいい、それを考えることを止めてはいけない。それが子どもであることの義務であり、そして権利なのだから。
最後に
まとまりのない文章で、まったく意味不明かも知れません。ごめんなさい。いつものことなんです。でも自分が考えてきたことをうまく伝えようとしたつもりです。
親も子どもも甘えてるんじゃないかとそう思ったんです。これは親子の関係だけじゃなく、全ての日本の事件・ニュースを見ていて思うわけです。甘えの構造っていう本があったけれど、もし読んだ人がいたら内容教えてください(無関係)。自分の責任は自分でとらなきゃならない、っていう当たり前のことがどうも徹底されてないんじゃないかなぁ。自分がわからないとか、何したいかわからない、なんて今また盛り上がって「自己像が掴めない現代っ子」なんて言われているけど、なんでも名前を付けて社会現象にすりゃいいってもんでもないだろう。
精神病もリストカットも、実際それに悩んでいる人がいるのは確かだけど、昨今のブーム的なのには本当に閉口する。これも甘えだ。自分で自分が病気だ、何か変なんだと感じることで「他人と違う優越感」と「言い訳」を作るためのロジックだと俺は思う。挙げ句それを賛美するかのような歌が世の中に流行っていて、なんなんだそりゃって感じです。No.1よりOnly.1?改めて言うほどの歌でもないんじゃない、って思うんです。これは又今度のエントリーで書きます。
もし共感とか反論とかあったら、コメント・トラックバックお待ちしてます。いつでもOKですんで♪
コメント
これは!!もしかしてけーし兄やんのブログでないの!?
ということでご無沙汰してます。谷本尚子です☆
けーすけのブログから飛んできました!!
私も2月からブログ作ってて、つい最近新しいアドレスに変えました。
そしてけいすけもブログを作ってようで、チェックしてゆくと、なんだか懐かしい名前があるでないの!!と思って来ちゃったよ~。
よかったらまた私のところにも訪れてやって下さいな☆
(前のブログもリンクから飛べるようになってます)
アドレスはこちら↓↓
http://blog.livedoor.jp/naonaonaoko/
Posted by: なおこ | 2004年03月14日 07:37
何かさ、教職とってるけどゆとり教育意味不明です。それ自体も、その意味もよくわからん。
国もちょっとやってみて「っあ、まずい・・・」ってわかったらしく、早速微妙な方向転換図ってるしね。
前にM下政経塾主催のフォーラムで、ゆとり教育考えたっていうおじさんの話聞きに行ったけど、それも微妙だった。彼は一生懸命考えたんだろうけど、「こうするから。やってね」って言われても現場は混乱するだけ、って感じがするのは私だけでしょうか。。
Posted by: mika | 2004年03月14日 11:27
ウチは兄弟全員、物心付いた時から某スイミングスクールに通わされていました。そんな当時は、自分で水泳習いたいなんか言い出すはずもないんですが、親は上手い事仕組んで、気付いたときには普通におよいどったね。その時はイトマンなんか(あ、言ってもた)死ぬほど嫌いやったけど、今考えたら泳げてよかったと思うし、今でもジムに泳ぎに行ったりしてるし。
まあ、親が私にしてくれたことはすべて大成功に終わったとか思わんけど、いつも教育ごとに関しては惜しまずいろいろやらせてくれたんで、そう言う面では有難かったです。その代わり、遊びごととかに関しては、やたらと厳しかったなぁ・・・。まあ、親とよく話をすることは本当に大事だと感じました。
Posted by: あき | 2004年03月14日 16:14
>なおこ
いらっしゃいましー☆そっちにもコメントしておいたんでもう知ってるかな?
また色々足跡付けてってねー♪
シュウカツどうでっか?
>みか
失敗してるよな、そして百マス計算の陰山先生が取り上げられたりしてるところを見ると、文部省も若干方向転換…?
>あき
イトマン…笑 なつかしすぎ。身長たりんくて、水の底に沈んでるやつの上でもプール水面に首が出なかったので恐怖でした…笑 あぁイトマンよりピープル(今はXAXか?)が好き。
Posted by: k | 2004年03月14日 22:15